困難を通して優真が学んだこと
怪我からの復帰のシーズンとなった昨季、鍵山は慎重に一歩ずつ進んできた。構成の難度を一気に上げることはせず、1つの要素が確実にできるようになってから、次の要素へ。気が急く場面もあっただろうが、鍵山は焦りを表に出すことはなく、驚異的なほど粘り強く試合に臨んだ。
「怪我からの回復を目指した昨シーズンは、身体的な強さと能力を取り戻していくのと同時に、自信を取り戻していくステップでもありました。その経験が、今季の堅固な基礎になっています。優真は自分を信じて、内面にある自分のヴィジョンを見つけなければなりませんでした。昨季はそのための大事な時期だったと思います。また、しっかり休息をとって、しっかり食べるという意識も、怪我の時期を経て身につけたこと。きちんと体をケアし、体を尊重すれば、最大限のパワーが必要なときに体がきちんと動いてくれると学びました。夏のあいだは、ちゃんと休んで、あまり調子が下がることなく、また築き上げていくことができた。今年、彼はずいぶん成長して、練習プランの作成や振付プロセスにも進んで参加し、チームの決断に加わりました。彼のコーチとして、私が目標にしているのは優真が人間的に成長し、それを氷の上で表現することですから、彼の人間としての成長は素晴らしいと思っています」
鍵山がカロリーナの指導のもと、スケーティングのなめらかさや細部まで行き届いた表現を磨いてきたのは自明のことだが、カロリーナにとっても、トップクラスの選手にこれだけの密度で指導するのは初めての経験だ。逆に、彼女自身が鍵山を教えることで得たもの、学んだことも多いという。
「演技を見るたびに、優真の決意の固さと強い信念に何度も感心してしまうんです。あれだけ練習をしたら、どんなことだって可能になると思う。氷の上で彼が作り出すエネルギーの大きさといったら……。それでね、私も日本語を少しずつ勉強し始めたの。日本で過ごす時間がとても増えたし、自分の側だけに留まらず、相手の側にも立ってみたいと思って。ああ、でも……それは日本語だけのことではないかも。コーチをするようになって、私は『境界を乗り越える』ということを学んでいる気がします。
教えるときは、まずは自分の競技時代の記憶にアクセスして、自分があのころに気がついたこと、自分が当時周りの人から言ってもらいたかったことを優真に伝えるのだけれど、でも、試合の場に出ていくのは私ではないでしょう? 優真が気づくべきこと、優真が言ってもらいたいことはどんなことだろうって、彼の立場で考えを尽くすことが増えました。そのためには、私はスケーターとしての彼のことだけではなくて、人間としての彼のことを深く知らなくてはなりません。そうすることで、優真が彼自身の素晴らしさにアクセスすることを助けたいと思うの。このこと自体が私にとって大きな学びになっているし、優真ほど才能があり、人柄も素晴らしいスケーターの指導に加わることができるのは名誉なことだと思っています」
鍵山は怪我を乗り越える経験をはじめ、多くの困難を乗り越えてきたアスリートでもある。“人間・鍵山優真”を知っていくなかで、気づいたのはどんなことなのだろうか。
「どんな人にも、その人にしかないストーリーがあります。そのすべてが特別なもの。優真に関して言えば、お父様との絆、2人のあいだにある大きな信頼が、やはり特別なものなのだと思います。2人が目を見交わすだけで、もうお互いが何を言いたいのかわかっていて、とくに言葉を交わすことがなくとも通じ合う様子を何度も見てきました。彼があれほど固い決意をもって競技に臨んでいることには、そういう背景もあるのかもしれないと思うこともあります。お父様が体調を崩されたとき、まだ優真も小さくて、お父様もお若かった。どんなに不安で、それを乗り越えるのがどんなに大変なことだったか。手を携えて戦ってきたことが、いまの2人の関係を形作っているんでしょうね。同時に、さまざまな経験を通して、人間としての優真が形作られてきたのだと思います。彼のたくさんの優しさ、相手への共感力、周囲の環境に対する注意深さ。それらはすべてが特別なものです」
今シーズンの鍵山は、たとえミスがあったとしてもそれ以降に崩れてしまうことなく、果敢に挑戦を続け、自分の世界観を氷上に作り出そうとする姿が印象的だ。カロリーナが「決意」と呼ぶものが、鍵山の内側にみなぎっていることが見て取れる。
「試合に行くときは、どんな試合でも、ゼロから始めなくてはなりません。どんなに練習をしても、そのときに氷の上に出ていくのは、冷たい水の中に飛び込むようなもの。すべてをコントロールしたいという不可能な願望を手放す勇気が必要なんです。手放して、同時に自分がやってきたことを信頼する。そうすればまるでミケランジェロのように滑れるんです。ミケランジェロは、大理石から彫刻を彫り上げるとき、彫刻を作ろうとしたのではなくて、大理石の内側にあるものを出してあげようとしたのだそうです。手放すことによって、そういう境地に至れるわけです。
優真は毎日スケーティングの練習に取り組み、たくさんのスケート語彙を心のなかに満たし、アスリートとしてだけでなくアーティストとしても成長していっています。試合ではもちろん技術的な側面も大事ですが、同時に、人々に忘れられない瞬間を届け、ただスケーティングを楽しむというひとときを創り出すことができる。それがスケートの力だと、私が信じているものなんです」