追悼の辞
菅原さんがこのように突然旅立たれてしまい、お知らせをいただいたときは、驚きと悲しみのあまり、言葉を発することができませんでした。
私はフィギュアスケート専門誌「ワールド・フィギュアスケート」の編集長を務めております。菅原さんと初めてお会いしたのは、1996年。アトランタオリンピックを前に『芸術スポーツって、何?』というフィギュアスケートなどいわゆる採点競技を取り上げた単行本を作るときでした。そして、長野オリンピックのあと、1999年秋、菅原さんにお力添えをいただき誕生したのが「ワールド・フィギュアスケート」でした。
以来、菅原さんとは、世界選手権はもちろん、オリンピックでは、荒川静香さんが金メダルを獲得したトリノ大会、浅田真央さんが銀メダル、高橋大輔さんが銅メダルを獲得したバンクーバー大会、羽生結弦さんがオリンピック2連覇を果たした平昌大会などを現地でいっしょに取材しました。
菅原さんは、1953年東京生まれ。有限会社ジャパンスポーツ代表。ワールドカップ、米メジャーリーグ、オリンピックなどを撮影してきた日本を代表するスポーツフォトグラファーでいらっしゃいます。日本人カメラマンがフィギュアスケートの現場に誰もいない1980年代半ばから、海外にまで撮影に行かれていました。世界選手権は1985年から撮影し、1989年にパリで開催された世界選手権で、伊藤みどりさんが日本人初の世界チャンピオンになったときは、ファインダーが涙で曇って見えなかったと、のちにお話を聞かせてくださいました。
海外のカメラマンやジャーナリストからも、「スガワラ」「ミスター・スガワラ」と、親しみをこめて呼ばれていました。「ぼくの英語はブロークンイングリッシュだから」と照れながらも、ユーモアにあふれたお人柄で、みなさんから愛されていました。
2019年11月、グランプリシリーズのフランス大会の場で、菅原さんは海外の大会取材は、今回が最後になると話され、海外のカメラマン仲間たちと記念写真を撮られていました。でも、まさか本当にそうなるとは誰も思っていなかったのでないかと思います。
私が長年、菅原さんと現場でご一緒してきて、強く感じていたのは、菅原さんがじつに「フェア」な方だということです。スポーツはフェアプレイの精神が大事にされますが、菅原さんこそ、まさにそのかがみでした。
日本スケート連盟のオフィシャルカメラマンを長く務められていましたが、オフィシャルカメラマンというのは、取材に集まるカメラマンのリーダー的存在です。菅原さんは、すべてのカメラマンが気持ちよく、よい写真が撮れるようにと、全力を尽くすリーダーでした。
菅原さんの交渉力は、国際大会の場でも発揮され、国際スケート連盟のスタッフを相手に、私たち報道する立場の人間が気持ちよく、よりよい仕事ができる環境づくりを考えてくださいました。いま、報道の第一線で活躍されている方のなかで、菅原さんのお世話にならなかった人はいないと思います。
今シーズンで「ワールド・フィギュアスケート」は、創刊25周年を迎えましたが、ここまで雑誌を続けてこられたのも、菅原さんが導いてくださったからにほかなりません。
菅原さんのお写真には、菅原さんにしか出せない艶と言いますか、あでやかさがあります。だからこそ、海外のスケーターからも日本のスケーターからも、菅原さんは絶大な支持を得ていました。この華やかなフィギュアスケートというジャンルは、まさしく、ダンス音楽や映画音楽が好きな菅原さんの特別な才能が生かされるフィールドだったのだと、いま改めて感じています。
カメラマンのお仕事は、「最高の一瞬」を切り取るお仕事です。その瞬間はあっというまに過ぎ去ってしまいますが、写真にはその感動が永遠に残ります。菅原さんは、「記憶に残るスケーターはやはりきわだった個性をもっている」とスケーターをリスペクトし、「撮影するときは、喜怒哀楽というテーマに沿って、場面、場面を静止画として写し取ることを心がけています」と話されていました。これからも、菅原さんが撮影した多くの写真たちのなかに、フィギュアスケートの、そして菅原さんご自身の、輝かしい瞬間を見ることができます。
あらためて、長きにわたり、菅原さんからいただいたご厚情とご尽力に深く御礼を申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
新書館「ワールド・フィギュアスケート」編集部
編集長 鈴木和加子
菅原さん、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
私が初めてスケートにはまったのはソルトレイク五輪のアレクセイ・ヤグディン。ワールドフィギュアスケートの雑談を買い漁り、菅原さんによるたくさんの美しい写真に釘付けになっていたのが今でも少し前のことのように思い出されます。
どうしても感謝を伝えたくて、ショーで菅原さんにお声がけすると「ヤグディン、いいよね!」と言って頂いたこと、菅原さんとのツーショットを撮らせて頂いたこともとても良い思い出です。
スケートへの深い愛情がある菅原さんだからこその、躍動感あふれる写真たち。ヤグディン引退時の写真、そして「ヤグディンに捧げる」の寄稿もヤグディンへの優しい目線が伝わり、ファンとしてとても誇らしく嬉しく思っていました。
私は好きが講じて、いまでは大人スケートを始めて大会に出るようにもなりました。いつか菅原さんにお写真撮ってもらいたかった…なんて大層な夢はさておき、私が今でもスケートを楽しめている理由のひとつは菅原さんのたくさんのお写真です。本当に長きに渡るご活躍、ありがとうございました。安らかにお休みください。
最近会場でお会いしないなと思っていたのですが。。長きに渡りフィギュアスケートを盛り上げていただいたし、現役の頃からたくさんお世話になりました。そして、素敵な写真をいつもありがとうございました。 心からご冥福をお祈り致します。
菅原さんのお名前を見かけなくなって久しく、この競技会、菅原さんならどのように撮影されただろうかと、ずっと考えていました。
写真は瞬間です。しかしながら、素晴らしい写真には流れる時間を感じることができます。時間が凝縮された一枚を生み出すためには、フィギュアスケートの性質を理解し、指先から爪先まで余すことない構図を確保し、選手の美質を把握し、愛し、それが最大限に発揮される瞬間を知らねばなりません。さらに、誌面でレイアウトしやすい余白をつくるなどの配慮も必要です。こうして思考をフルに稼働させつつも、すべてを削ぎ落として、スケーターが最高に際立つ一枚を生み出す。そんなプロフェッショナルな仕事ぶりを、菅原さんとジャパンスポーツさんの写真からは、いつも感じていました。
スケートの美しさ、フォトグラファーの仕事の美しさ、それを丁寧に被写体の大きさやブレードの位置などを揃えてレイアウトに落とし込む編集の仕事の美しさ。美しさのリレーによって生み出された雑誌をめくると、背筋がピンと伸びるような感覚になり、私自身ジャンルは違えど制作の仕事に携わっていることもあり、手元に置いて参考にさせていただいています。
そのリレーのなかに、もう菅原さんがいらっしゃらず、菅原さんが撮影された写真を見ることが叶わないのだと思うと、悲しくてなりません。美しく素晴らしいプロフェッショナルの技に、心からの敬意を表します。ありがとうございました。
菅原さん
体調が優れないと数年前に人伝に伺い、会場でもお見かけしなくなり、ずっと気になっていました。
菅原さんの優しい眼差しが忘れられません。
菅原さんから教えていただいたこと、これからも大切に心に留めて生きて行きます。
どうぞ安らかにおやすみください。
現役時代、大変お世話になりました。
多くの素敵な写真を撮って頂いたのみならず大変フレンドリーで、我々選手達にも気さくに声をかけていただき、楽しく雑談した事も思い出します。
世界選手権の時などは菅原さんがお持ちだったバズーカ砲のようなプロ仕様のカメラで写真撮ってくれた後、私のデジカメのシャッターも笑いながら押してくださったりしてくださいました。
ホントに色々お世話になり、ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
写真集持ってます。大事にします。今までありがとうございました。
御冥福をお祈り致します。
世界選手権で写真を撮っていた時、偶然お隣の席に菅原さんが座られ、ほぼ初心者のフリーな私にも気さくに声をかけていただいた思い出があります。どうやったら良い写真が撮れるのか、たくさんアドバイスをいただきました。レジェンドな菅原さんから1対1でずっとアドバイスをいただいた為、もしアドバイス料をいただくとしたらどれくらいのお値段なのか気軽に聞いてみてしまったところ、菅原さんは笑って「40万だ!(笑)」とおっしゃりました。本来なら40万支払ってもおかしくない偉大なフォトグラファーな方なのに、気さくに無料でアドバイスをいただいたお人柄に感銘を受けました。あの時の思い出は今でも大切な宝物です。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈り致します。
伊藤みどりさんが引退されて直後のショーだったでしょうか。「来てくれたんだ。ありがとう」と手を差し出してくれたことを覚えています。
ニースの世界選手権では羽生結弦さんの演技に号泣して「オレ、あいつがこんなころ(小さいころ)からの知ってるんだ。遠くへ行っちゃったよ」とまた大粒の涙を流す。別の日には高橋成美&マーヴィン・トラン組の銅メダルに「日本のペアが表彰台に立つ日が来るなんて!」と満面の笑みを浮かべていたのを覚えています。
やがて隆盛の時がやって来てカメラ席に入りきれないほどの報道陣をさばいて、主催、連盟と交渉して取材席を広げてくれました。本当にありがとうございました。
私はあなたと一緒に仕事ができて幸せでした。そして楽しかった。安らかにおやすみください。またお会いしましょう。
とても悲しく寂しい気持ちです
菅原さんのお写真には選手への愛情が確かにあったと思います
観戦に来ただけのファンにも気さくにお話下さり、何だか楽しそうに撮っていらっしゃるお姿を覚えています
今の、これからの選手達のお写真も見てみたかった、菅原さんならどう撮られるかしらと思ってしまいます
どうか安らかにお休み下さい
ご冥福をお祈りいたします
フィギアスケートで、ご活躍している時に、Jリーグの横浜フリューゲルスのチームカメラマンとしても活躍していただいてました。
その時の思い出で、オーストラリアキャンプの時に、試合中の写真を撮ってもらいました。
その時の写真で大きなパネルを作ってプレゼントしていただきました。
いつも冗談ばかり言って優しかった思い出しかありません。
ご冥福をお祈りいまします。
菅原さんには、不慣れだった写真業界でのビジネスのお作法を色々とご教授いただきました。お陰様でさまざまなことを学ばせて頂き、上手く立ち回ることができたのも菅原さんなくしてはなしえなかったことです。常にエネルギッシュかつ明るい性格で食事やカラオケでも楽しませて頂きました。本当にお世話になりありがとうございました。ゆっくりお休みください。
ご冥福をお祈りします。
菅原さんに初めてお会いしたのは、1986年ジュネーブの世界選手権でした。日本から観にくるファンはまだ珍しく、菅原さんから声をかけてくれました。以来、試合会場で会う機会があると、気さくにお話ししてくださいました。最後にお目にかかったのは2019年さいたまでの世界選手権。私が試合会場から足が遠のいていた時期があり疎遠になっていましたが、また会場に足を運んでいるのを見て喜んでくれました。その後、お見かけすることがなくなり、完全に引退してしまったのかしらと寂しく思っていましたが、まさか訃報を受け取るとは思いませんでした。ご冥福をお祈りします。
ワールドフィギュアスケートの創刊号を書店で見つけた時、やっとスケートの専門誌が出たと嬉しく思ったものです。そこで初めて菅原さんのお名前を見つけました。今のように気軽に選手達の演技が見られない頃、綺麗な写真を見るだけでもワクワクしていました。デジカメは1台でも沢山写真が撮れますが、フィルムカメラはたったの36枚。そんな頃から綺麗な写真を見せて頂きありがとうございました。御冥福をお祈りいたします。
キシモト在籍時代から、オリンピックなどの現場でお声掛け頂きました。日焼けした顔に笑顔で、色々と教えて頂きました。日本のスポーツ写真界を現在のビジネスとして昇華させた岸本建氏や、モータースポーツ写真の草分け的存在だった渡邉仁さん、そして菅原さんのような重鎮の方々が鬼籍に入られる事は、人には寿命が有るとは言え、寂しい限りです。当方も記憶に残る写真家として残りの人生を全うしたいものです。