2025年4月26日
アスリート経験をさまざまな形で伝えるスケーティングの名手の思い

INTERVIEW 小塚崇彦「アンチ・ドーピングは選手の未来とフェアな戦いを守るため」

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社会への理解を深めた先に見る、選手育成、スケート界の未来

―― 小塚さんは引退後、どのようにご自身のキャリアを築いてこられましたか。現役時代に一緒に戦った高橋大輔さんや織田信成さんの競技復帰もありましたが、どうご覧になっていましたか。

「それはもう、すごいなあ! って。ぼく自身は股関節が悪かったので、もう競技に復帰することはない、リンクの外でキャリアを積み上げていかないといけないと考えていました。活動していくなかで、自分自身の思いも変わっていって、スケート界だけではなくて、社会に対して自分がどうあるべきか、このスポーツがどうあるべきかと考えるようになり、社会とフィギュアスケート界との通訳をするのが大事なのではないかと思って、いまは活動しています」

―― 普及活動にも熱を注いでいらっしゃいますよね。

「一般社団法人を立ち上げて、『小塚アカデミー』として大人向けにも子ども向けにもスケート教室を開いて、普及活動を行っています。立ち上げ自体は選手のときにOBの方と一緒にしていました。そのときもセカンドキャリアってどうなるんだろうという不安があるなかで、OBOGの方々に助けてもらえたのがありがたかったですね。ぼくもOBOGとしてもっと頼られる存在になれたらいいなと思います。いまはスポーツ界でも縦割りという感じがだいぶなくなってきたので、スケート界だけでなく、ほかのスポーツとの横のつながりもできてきたと思うし、もっともっといろんなことができるんじゃないかなと思っています」

―― 小塚アカデミーは1つのリンクに教室を構えるというやり方ではなく、各地のリンクへ行って教室を開くアウトリーチ型ですよね。教室の構想はどのように?

「もともとこうしようと考えていたというよりも、スケート人生でやってきたことって何に役立つのかなとか、そういうことを考えるのが好きで。いろんなところへ顔を出して、大人の人たちの話を聞くと、会社経営や、経営者視点の社会貢献というなかでの考え方が、スケートでやってきたことにもけっこう当てはまるんだなと気づきました。選手時代は、同じことを何度も反復練習して、できるようになったら反省点を改善して、次に新しいことができるようになったらまた練習して、試合に出て、というのをずっと繰り返していた。それが、資料を準備してプレゼンに臨むとか、社会の方々と通ずる部分が大きいんだなと思うと、いままでなんだか特別なことをやっていたような感じがしていたんですけど、特別なことはやっていないんだなと気がついた――というのが、いちばん最初だったと思います」

―― 小塚アカデミーでは、子どもたちだけでなく、新しく始める大人の方も参加できるとのことですが、スケートは生涯スポーツと考えたときに少しハードルが高く感じる方もいると思います。そこのニーズにもリーチできているという点にはどんな実感がありますか。

「小塚アカデミーに最初に参加してくださった方々のなかには、最初は本当に興味本位で、『小塚くんがスケート教室をやっているし、一緒に滑ってくれるっていうから、じゃあ行ってみようかな』というところから始まった方たちもけっこう多くて。そういう方たちがよちよち歩きで氷の上を歩いていたところから、だいぶ滑れるようになって、アカデミーだけでなくて自分でも練習をしてくれるようになって。そんなふうにどんどん広がっていったのが、小塚アカデミーなんです。最初はただスケート教室をやっていたんですけど、やっぱりフィギュアスケートの醍醐味は何かといったら、音楽に合わせて振付をして、それを発表する。コスチュームを着たりするのも楽しいですよね。うちでは、プログラムにあわせて色を指定して、その色をウエアにワンポイント入れて発表したりしているんです。そうやってプログラムを滑ることを目標にして、そのなかにちょっと難しめの技を入れて練習する。目標を作る場が小塚アカデミーなのかなと思っています。これまでもちょっとずつかたちを変えながら、どうすればみなさんに楽しんでもらえるのか、スケートっていいなと思ってもらえるのかを考えた結果、いまここにいるんだと思います」

引退試合の2015年全日本選手権で、恩師・佐藤信夫コーチに送り出される ©Japan Sports

―― スケート一家の生まれで、もともと才能に恵まれていた小塚さんですが、教える立場になってみて、教え方や伝え方で学んだことはありますか。

「2つありますね。大学院で教わっていた湯浅景元先生から言われて印象に残っていることが、『幼稚園の子でもわかるように説明しなきゃだめだよ』という言葉。ちゃんと相手が理解できるように話さないといけないし、それができないということは自分がまだ理解できていないというお話をしてくださったことがあったんです。難しい言葉をつかったら、専門用語をすでに理解している人にしかわからなくて呪文みたいになってしまうので、そこは気をつけているつもりです」

―― では、もう1つは?

「もう1つは、スペシャルオリンピックスという、4年に一度開かれている知的障がいのある方たちのオリンピックです。そこでアンバサダーをさせていただいていて、コーチ資格の講習(コーチクリニック)を受けたんです。実際に愛知で何回か子どもたちに教えたりもしたんですけど、理解してもらうのにどう話したらいいんだろう、この子たちがスケートを滑れるようになって楽しんでもらうためにはどうしたらいいんだろうと、そういうことを考えたときがありました。こういう言葉を使ったほうがいいとか、理解のための時間が必要だから待ってあげたほうがいいとか。それは大人に教えるときにも通じることで、それぞれに必要な時間や理解の進度が違うので、それは個性としてこちらが受けとめないといけないと感じたんです。その2つが、いまアカデミーで役に立っていて、スケートを教えているときに大事にしていることかなと思います」

―― 選手育成という、競技的な指導にご興味は?

「技術を伝えていくのはすごく大切なことなので、いつかはぼくも、とは思っています。まずは自分がいろんな経験をして、良きも悪しきも知って、その経験を伝えられるだけの材料がそろったときに、スケートに立ち戻って伝えていきたい。選手としての、スケーターとしての成長だけが強化ではなくて、選手生活が終わったあとでも通用する人材を輩出できるようにしなきゃいけないと思うので。たとえば、いまだったら環境やジェンダー、人権などそういったところも含めて理解をしていかないといけない。いまJOC(日本オリンピック委員会)とも2026年のアジア大会に向けて関わらせていただいていて、そういうところで自分自身もしっかりと理解を深めて、それができたときには、選手育成をやってみてもいいのかなと思っています」

―― JOCではどういった活動を?

「いまは環境の分野を担当させてもらっていて、サステナブルな大会運営などに取り組んでいます。パリ・オリンピックはそういったところを自然に溶け込ませて、ベースにしていた大会だったと思います。日本でも2026年にアジア大会が開催されますし、国スポや全日本選手権など各連盟が開催する大会でも施策がされているんですが、まだまだ落とし込めていない部分もあるので、もっと考えていかないといけない。ぼくもしっかり伝えていけたらと思っています」

―― 被災地支援で能登にも行かれていたそうですね。

「能登へは、日本財団HEROsという団体に声をかけてもらって行きました。前回は、川が氾濫して水害で土砂が流れ込んできてしまった家に行って、土砂をかき出すという作業をしました。実際に能登へ行く前に、重機講習があって、重機の免許を取ってから行ったんです。次回は、スポーツ体験に参加する予定です。被災されて仮設住宅に住んでいる方たちもまだたくさんいらっしゃるので、アスリートが自分たちの経験してきたスポーツを通じて一緒に体を動かして、心身ともに健康になってもらえたら、と」

東日本大震災の発災にともない、1ヵ月遅れで開催された2011年世界選手権で銀メダルを獲得し、表彰式で「がんばろうニッポン!」のフラッグを掲げた ©Masaharu Sugawara/Japan Sports

―― 選手時代から、大学院に進んで湯浅先生に学ばれたこともそうですが、視野を広く持っていらっしゃいますよね。

「それこそ父や祖父がずっとスケートをやっていたからこそ、スケート界のことはある程度歴史も含めて教えてもらっているし、スケート界だけでおさまってはいけないと常日頃から言われてきました。選手生活が終わったあと、スケートの先生になるにしても、その前にしっかりと会社で働かせてもらうなり、社会や会社の制度を知らなきゃいけない、と。何かを始めようとしたとしても、社会の事情がわからないままでは、自分でどう進めていけばいいかもわからないだろうし、そんな状態でスケートをもっと広めていきたいと思っても難しいと思う。とはいえ、やっぱりぼくの活動は人に助けてもらって成り立っていると思うので、ぼくも仲間を増やしていけたら、もっと盛り上がるスケート界を作っていけると思っています」

―― さまざまなフィールドでの活動に注目していきたいと思います。本日は多岐に渡るお話をありがとうございました。

プロフィール
小塚崇彦(こづか・たかひこ) 1989年2月27日、愛知・名古屋生まれ。中京大学大学院体育学研究科体育学専攻博士前期課程修了。祖父、両親が元選手のスケート一家に生まれ、選手時代は佐藤信夫に師事。2005年ジュニアGPファイナルで日本男子初優勝、2006年世界ジュニア選手権優勝など、ジュニア時代から頭角を現し、2010年バンクーバー・オリンピック8位、2010年全日本選手権優勝、2011年世界選手権2位と世界のトップシーンで活躍後、2016年に競技を引退。現在は、「小塚アカデミー」を各地で開催して普及活動に力を注ぎながら、JOCオリンピックムーブメント専門部会委員や日本スポーツチア&ダンス連盟理事、アンチ・ドーピング啓発活動など、アスリートとしての経験をさまざまなフィールドで多面的に生かして活躍している。
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