「ワールド・フィギュアスケート」は、次号で創刊100号を迎えます。弊誌では、日本のスケーターのみならず、フィギュアスケート界で輝く海外スケーターたちの活躍もご紹介してまいりました。創刊100号にあたり、「WFSプレイバック」特集と題して、バックナンバーのなかから編集部がセレクトした珠玉の記事をお届けします。
第1回は、現在プロスケーター、世界王者のコーチとして大活躍するスイスの英雄ステファン・ランビエルさんが2005年世界選手権で初優勝したときの単独インタビューです。
2005年3月、ランビエルはモスクワで開催された世界選手権で初優勝を飾りました。翌年にトリノ・オリンピックを控えたモスクワ大会は、大会3連覇かつ4度目の優勝を狙う地元ロシアのエフゲニー・プルシェンコが優勝最有力と目されていました。当時、世界選手権では、予選、ショートプログラム、フリーと3回演技が行われていましたが、プルシェンコは予選はA組1位で通過したものの、股関節の状態が悪化し、ショートプログラムは5位となり、フリーは棄権してしまいます。
前回王者が不在となる中、目の覚めるようなあざやかな勝利を収めたのが、当時19歳のランビエルでした。4種目すべてにおいてロシアが強さを誇った時代、58年ぶりにスイスから現れた若き世界チャンピンに、スケートファンや関係者は熱いまなざしを送ることになります。インタビューしたのは、フィギュアスケート取材の第一人者として知られるジャーナリスト、田村明子さんです。温かくも鋭い切り口で、覚醒の時を迎えた若き世界王者の素顔に迫っています。
この世界選手権は、自分との闘いでした
未来のチャンピオンの器と常々書いてきたが、これほど早くそのときが訪れるとは思わなかった。予選からトップを保って独走優勝という骨太さを見せたが、話している雰囲気も語る内容も、スポーツマンというよリアーティストである。さまざまな意味で、従来の型にはまらない、見ていて興味深いスケーターだ。
—— 世界選手権優勝おめでとうございます。ここでの演技の感想を教えてください。
ランビエル 素晴らしい気分です。ここに最初に来たときから、とても快調で体に力が満ちているのを感じました。ぼくは最初の公式練習から闘いはすでに始まっていると思うのですが、練習も絶好調でした。全体を通して公式練習中ジャンプを失敗したのは2回だけだったと思います。
—— このメダルはあなたにとって最初の世界選手権メダルであるだけではなく、メジャーなシニア国際試合でとった初のメダルですよね?
ランビエル そうなんです。驚きでしょう? 初めてのシニアメダルが世界選手権の金メダルだなんて、こんな素晴らしいことはありませんよね。
—— 昨年お話したとき(本誌14号)、メダルは大切ではない、演技の内容が大事とおっしゃっていました。こうして実際にメダルを手にした今の気分はどうですか。
ランビエル 実際、フリーは最高の演技ではありませんでした。もっと質の高い演技を目指して努力をしていきたいと思っています。もちろん今回の結果はすごくうれしいです。でもやはり、順位よりも内容のほうが大切という気持ちは今でも変わりません。
—— ブライアン・ジュベールが失敗した後、SP後1位にいたあなたはおそらく4回転を2度も跳ばなくても勝ったでしよう。リスクをふんだのはなぜですか?
ランビエル だってぼくは、4回転が大好きなんです!(笑)ブライアンの得点が耳に入ってきて、あまりいい演技ではなかったことはわかりました。でもどのみち、ブライアンは関係なかった。これはぼく自身との闘いでした。この1週間、予選、SPといい演技ができたので、手を抜いたフリー演技でチャンピオンになりたくはなかったのです。
—— スイス国内選手権の前に長年ついていたコーチを1度変わって、再び戻った事情について教えてください。
ランビエル 昨年の秋に膝の手術をしてから、方向性を失ってしまってスランプに陥りました。セドリック(・モノド)が、気分を一新して自分と一緒にトレーニングをしてみないかと声をかけてくれました。それで試してみることにしたんです。彼とのトレーニングはうまくいっていました。ところがスイス国内選手権に出てみたら、何かが狂っていた。ぼくはこれまでずっとピーター(・グルター)と、コリオグラファーのサロメ(・ブルナー)と3人でやることに慣れていました。彼らがリンクの横にいてくれないのは、とても変な気分でした。それでピーターに電話をして、もう1度教えてくださいと頼みました。
—— 新しいコーチとは練習中はよかったけれど、試合への調整がうまくいかなかったということですね。
ランビエル ええ、そうです。ぼくが氷の上にいて、ボードの横にピーターとサロメがいる。そういうトライアングのようなバランスが、ぼくにはやはり必要だったんです。
―― 記者会見で、アレクセイ・ミーシンコーチにも感謝をしていましたが、どういう形で彼とトレーニングをしたのですか?
ランビエル スペインで夏に2回、彼のトレーニングキャンプに参加したことがあります。それから2年前にロサンジェルスで1回。2003年10月には、カップ・オブ・ロシアの前に10日ほどサンクトペテルブルグに滞在して彼に教わったこともあります。ジャンプのテクニックのほか、いろいろなエクササイズなども教えてもらいました。
—— でも今ではあなたはこうして、プルシェンコの最大のライバルになった。面白いものですね。
ランビエル そう、本当にその通りです。でもミーシンからは祝福してもらいました。
ーー 以前にルシンダ・ルーが、スイスの連盟からあまり援助をしてもらえないと語っていたのを聞いたことがあります。あなたの状況はどうなのでしょう。
ランビエル 問題ありません。経済的な援助は一部だけですが、ぼくはトレーニングを続けていくことができるだけで十分。あまり多くを求めてはいないのです。連盟のチームはぼくを精神的に支えてくれますし、それにぼくの村からの応援団も来てくれました。スイスの旗をもった一団に気がつきましたか?
ーー ええ。あなたの村から来た応援団ですか?
ランビエル そうです。ぼくの出身地は人口3000人ほどの小さな村で、全員が親戚のようなものです。村の人たちみんなで、ぼくのトレーニング代の一部を負担してくれているのです。いつも試合になると、彼らの中から50人くらいの応援団が一緒に来てくれます。昨夜は彼らと一緒にお祝いをして、村のみんなが盛大に祝ってくれているのを携帯電話で聞かせてもらいました。
ーー 以前に好きなスケーターの名前をあげてくれましたが、確かベトレンコ、ヤグディン……。
ランビエル エルドリッジ、プルシェンコ……それから今回はジョニー・ウィアーがいいなと思いました。彼はすごくラインのきれいな、ピュアなスケーターですね。ただ彼はもう少し顔の表晴を豊かにしたほうがいいと思う。本人にそう伝えてあげるつもりです。(笑)
ーー 昨年度よりさらに体の動きが洗練されてきましたが、モダン・バレエはまだ続けているのですか?
ランビエル ええ、新しいコリオグラファー、フィリップ・サエルとやっています。非常にモダンなスタイルのコリオグラファーです。常に新しいスタイルを創造していきたいと思っているんです。
ーー 理想とする滑りがあるとすれば、具体的にどんなものでしょうか?
ランビエル 思い描くイメージはあります。音楽を自分の中にとりこんで、体のラインで表現し、存在感でリンク全体を満たすような滑りです。自分が大きく広がったように感じる滑りを表現してみたいです。
ーー トリノ五輪では、ファンにどんな滑りをアピールしたいと思いますか?
ランビエル 強さと同時に、深い情緒性を見せたい。音楽を心から表現する滑りを見てほしいと願っています。
(2005年3月19日、モスクワにて取材/取材・文:田村明子 Text by Akiko Tamura)
※本記事は「ワールド・フィギュアスケート」18号に掲載しています。